【第5回】うつ傾向の予兆的症状

私が過去に診察をした55歳の女性についてお話します。その女性は、さいきん物忘れがひどい、仕事をやろうとする気力も少なくなったという訴えでした。
私はまず「うつ病」を疑いました。更年期とか初老期とか年代のどれに属するかは別として、身体の変化や定年退職などを控え、こういった人が「うつ」になりやすいことはよく見られる傾向です。さらに少し早めの「認知症」の疑いも持つ必要があります。
この際、認知症を疑い、脳の萎縮をみるためのCTやMRIの検査をして病気を鑑別診断することを急ぐのは開業医的な判断です。しかし彼女の場合、生活状況を把握することが、まず必要だと感じました。おそらく気分や作業能力などは、毎日多少は変動するものですし、また「うつ気分」や「やる気」という感情や意欲の面での症状と、記憶力や作業のパフォーマンスなどという知的な面での症状とは、相互に影響しあっていて、分けて考えられないものだからです。
そこで彼女の家庭の状況をいろいろとヒヤリングしました。
家庭の状況
彼女の父親は91歳で、数年前に脳梗塞を患い、老健施設に入所中。母親は83歳で彼女と一緒に生活していますが、さいきん記憶力の低下が著しく、生活に支障をきたすことも多く、それを悲観してか、「死にたい」と繰り返すようになったとのこと。そして母親の状態に引きずられ、彼女自身もうつに。
仕事に身が入らず、間違いが多くなったという彼女の分析はおそらく正確なものでした。彼女の家族関係は、兄が一人いて結婚し、近所に住んでいるが、子供はいません。
ここで振り返ってみると、母親の気分が滅入った状況もよく理解できる。昼間だれも話し相手がいないし、心を通わせていた夫の余命もわずか。夫婦の年金と娘からもらう小遣いとで、差し当たっての生活には不自由ないけれど、余裕があるといえるほどでは決してなく、この先夫の病状が急変したり、自分が病気になったりすると、今の生活は精神的な面でも経済生活の面でも維持できなくなってしまいます。
また日増しに体力気力の衰えを感ずることも、母親のぼやきの原因になっているのでしょう。その気分が娘にも感染した結果、娘も「ゆううつ」になり、家族全体がうつ状態になったと解釈できます。
プライベートの状況がうつ病発症に引き金に
彼女の家の状況を他人の目でみてみると、まるで日本の縮図。現在時点ではこの一家の収入は父母の年金、彼女と兄の収入があるので、まあ何とかバランスが取れていると云えるでしょう。しかし父母が亡くなって彼女も年金世代になった時点では、兄夫婦も彼女同様老年になっています。
少子高齢化の社会の中でこういった不安を掲げる働き手は多く、また老々介護という側面もこれから増えてくると思います。そんな中で組織として働き手のプライベートに対するヒヤリングは今後ますます重要となるでしょう。